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「帝人事件弁論」という冊子の思い出

是清本を書くために、1920年代から36年までの歴史を改めて猛勉強しました。結果的に分かったのは、現在の日本国民の多くは「あの時代」を知らないなあ、という事です。




 例えば、「コレキヨの恋文 」では、帝人事件や天皇機関説弾圧が重要な意味を持ちますが、普通の日本国民はこの二つの「意味と意義」を深く考えたことがないのではないでしょうか。特に、天皇機関説弾圧はともかく、帝人事件について知っている日本国民は少数派なのではないでしょうか(これは憶測)。帝人事件にせよ、天皇機関説弾圧にせよ、デフレ下で閉塞感に包まれた社会における「思想の暴走」と呼ぶことができると思います。


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今日の朝、三橋貴明氏のブログでこの文書を読んで、


「失われた時」を思い出した。


紅茶に浸したマドレーヌ菓子のような一文であった。


(プルースト「失われた時を求めて」参照)


 


これがマドレーヌね。


http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11199768737.html


 


 


我が家は都内であるが、奇跡的に東京大空襲の難を逃れた。

それゆえ、子供の頃は戦前の本が沢山あった。


この中に「帝人事件弁論」という冊子があり、


この本はかなり読み込まれていた。


 


そこで、父に「この本は?」と聞くと?


「ああ、お祖父ちゃんが、弁護士事務所でこの裁判を手伝ったと聞いている」とのことだった。


 


 この本は表紙が取れてしまって無く、奥付もあったのか不明。捨ててなければ、まだ、我が家のどこかにあるかもしれない。その後、帝人事件の話は父から聞いた。


 


WIKIの記述は以下の通り。


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帝人事件は、戦前の1934年に起こった疑獄事件。


斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となり、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。


 


帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。


業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。


元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。


その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。


1934年1月、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。


当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任(なお、3月に武藤山治射殺事件が起きたが、本事件との関係は不明である)。


 


その後、帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。


これにより政府批判が高まり、同年7月に斎藤内閣は総辞職した。


なお、この事件の逮捕者の拘留期間は200日に及び、拷問による自白の強要もあったという。


 


起訴された人物は主に次のとおり。


島田茂台湾銀行頭取 - 背任・涜職容疑

永野護(番町会)

河合良成(番町会) - 背任容疑

黒田英雄大蔵次官 - 涜職容疑

大久保偵次大蔵省銀行局長

大野龍太大蔵省特別銀行課長

相田岩夫大蔵省銀行検査官

中島久万吉商工大臣 - 涜職容疑

三土忠造鉄道大臣

高木復亨帝人社長 - 背任・涜職容疑


1937年、起訴された全員が無罪となった。検察による強引な取調べと起訴が批判され、「検察ファシズム」といわれた。


 


でっち上げの背後にいたのは、司法官僚出身で当時枢密院副議長の平沼騏一郎とされる。


平沼は五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継内閣総理大臣の地位を願ったが、後継の推薦権がある元老・西園寺公望からその志向をファシズム的であるとして嫌われ、推薦候補にすら上らず、また枢密院議長昇格の要望も西園寺の反対で副議長のまま置かれていた。


このため、西園寺とこれを支持する立憲政友会主流派を深く恨んで、同党内部の不満分子を抱き込みながら捜査を進めていったという。


また時事新報が記事を書いたのは、ちょうどこの頃、朝日新聞の東京進出が云われており、焦ったためだという。


のちに河井信太郎が帝人事件を評して、次のように語っている。


「塩野季彦司法大臣の大英断により控訴を断念したが、検事が証拠品の検討を怠っていたことが無罪の致命傷になった。掛物によく描かれている、水の中の日影を猿が藤蔓につかまってしゃくろうとしている画になぞらえて、影も形もないものを一生懸命にすくい上げようとしているのが検察の基礎であって、検察には争うことができなかった。」


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なお、この裁判を担当した今村力三郎の研究室は専修大学にある。


 


http://www.senshu-u.ac.jp/~off1021/imamura.html


 


祖父は専修大学の出身なので、今村先生との関係は、そこから来ているのかも知れない。


 


専修大学には「特待生」の生徒があり、成績のよい学生は授業料が只になる。今でもあるのかは不明。


貧困ゆえに祖父は高校から大学まで特待生として卒業したとのこと。


by yuyuu-yano | 2012-03-22 08:17 | 伝統・感謝・祈り
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