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ステンカ・ラーディンとコサックの悲劇





 


ステンカ・ラージンはコサックのアタマン(頭)である。


 


カスピ海に乗り出したラージンは、デルベントからバクーに至るペルシアのカスピ海沿岸を荒らし、ラシュトの中央市場では住民の大殺戮に及んだ。


1669年の春、スイナ島を収めたラージンは、7月にはペルシア艦隊を撃滅、ステンカ・ラージンは手のつけられない存在となった。


 

1669年、ラージンは再びアストラハンに現れ、そこで皇帝・アレクセイ1世の恩赦を受けた。


人々はラージンの活躍に魅せられていった。


アストラハンのようなロシアの国境地帯はまだ無法地帯で、人々はいまだに遊牧民的であり、ラージンの武装蜂起を受け入れるような環境が整っていた。


 


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アストラファンのクレムリン


 


しかし、ロシア革命以降、ソビエト連邦は、コサックを反革命分子と見なし、スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承した。


 


それにより、440万人のコサックの70%、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺された。


 


 


弾圧を逃れたコサックの多くは海外に逃れた後に、第二次世界大戦においてドイツ軍に協力した。


 


ドイツの敗戦でコサックは英国など連合軍の捕虜になった。コサックは共産主義陣営と戦うために共闘しようと申し出たが、英国はそれを拒否してソ連に送り返した。


 


そのため、コサック兵は全てスターリンにより、その家族を含めて虐殺された。


by yuyuu-yano | 2013-05-04 18:31 | 世界の音楽
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