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さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち



上の古代の台詞の「地球」を「日本」に置き替えて見てください。
西崎の旦那は、結局はこれを作りたかったのだなあと思います。

「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」は1978年8月に東映系映画館で公開のアニメーション映画。
テレビシリーズ「宇宙戦艦ヤマト」の続編になる。
テレビ版の第一作は最初から人気があったのではなく、再放送されてから人気が出た。
イスカンダル星まで放射能除去装置を取りに行く「長い」ストーリィである。
しかし、この2作目は、最初から戦闘である。

ガミラスの侵略を退けてから1年後の西暦2201年、白色彗星帝国が宇宙の各惑星にその侵略の手を伸ばしていた。
地球は復興をほぼ終え、都市は活気づき平和に満ちていた。
古代進も護衛艦艦長として輸送補給船団に同行していたが、偶然、発信源不明のメッセージを受信する。
そのメッセージは、救いを求めるような女性の声であった。
かつてのヤマト乗組員たちは、危機の正体を突き止めるためにヤマトを発進させる。
テレザート星に到着した古代たちは、メッセージの発信者であったテレサを救出する。
テレサは、白色彗星帝国が宇宙の星々を次々と侵略しており、次に狙っているのが地球であることを告げる。
白色彗星帝国は地球に迫り、最新鋭戦艦アンドロメダを旗艦とした地球艦隊を全滅させる。
ヤマトは白色彗星の渦の中心核に波動砲を打ち込む。
彗星は火の玉となって炎上するが、その中から巨大な要塞、都市帝国が出現する。
激しい戦闘の中で次々と乗組員たちが戦死していく。
古代たちは都市帝国内部に侵入して動力炉を破壊する。
しかし、その都市帝国の内部から超巨大戦艦が出現する。
エネルギーもほとんど尽きているヤマトを嘲笑するズォーダー大帝に向かい、古代は徹底抗戦を宣言。
ある決意を固めた古代は、生き残った数少ない乗組員をヤマトから退艦させ、超巨大戦艦に向けヤマトを発進させる。

巨大な侵略軍が地球に迫り、地球軍は応戦するが全滅する。
最後に残されたヤマトは特攻作戦を取り、敵の巨大戦艦と共に自爆する。
あまりにも軍事色が強いので、この続編は評判が良くなかたが、最後に特攻と心中まで入れてあるので、進歩的文化人は「なんちゅうものを作るのか」と怒ったことだろう。
西崎の旦那も、これがヤマトの最後です。二度とお目に掛かることはありません。
・・・・とわざわざ映画の最後にメッセージを残し「我儘、言ってすませねえだ、許してたも」。

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でも・・・・・・
観客動員数 400万人
興行収入 43億円
配給収入 21億円2千万円
東映は配給収入の目標を15億円としたが、目標を上回り前作の2倍以上の21億円とアニメ映画史上に残る大ヒット。

そこで、続編を作ることになったのだ。
ゴジラ映画では「これが最後だ」と言い続けて25作も作ってしまったのだから。
良くある話です。
西崎の旦那は「宇宙戦艦ヤマト3」まで作り、そこで終了。
その後は別のスタッフで製作が続いたので西崎と松本零士との裁判になりました。
この映画の成功の後に、同じストーリィでテレビアニメが始まるが、
こちらの方は最後の特攻も心中もなし。
「ヤマトシリーズを続けるために筋を変えた」と非難されてますが、テレビで特攻はまずいという判断だったのでは。
WIKIIによると。
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本作と「宇宙戦艦ヤマト2」の結末が大きく異なることについては、ふたつの見解がある。
監督である松本は戦争の記憶の残る時期に発表された前作において「目的を果たし、生還する」というメッセージ性を強く意識しており、ゆえに彼は本作の結末が特攻を美化するとして良しとせず、「生き残って再建の苦しみを描くべき」と主張した。そのため、後にテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト2』が製作されることになる。
一方、安彦良和によると、本作がヒットした結果、製作側は「もっと続編が作りたくなっちゃって、また生き返らせろというんですよ(笑)」ということになり、安彦は反対したものの本作のキャラクターは生き返り、続編を制作することになった。
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by yuyuu-yano | 2014-12-14 16:02 | 宇宙戦艦ヤマト

フェルディナント・ホドラーの世界

「わかり過ぎて怖いぐらいね・・・」
会場に入るやいなや彼女が呟いた。

確かに会場内にはピリピリした空気が感じられる。
それは画家の研ぎ澄まされた感性から発しているように思われた。
スイスの画家、フェルディナント・ホドラーの展覧会が国立西洋美術館で開催されたのは、1975年の6月7日から7月20日である。
それ以降、ホドラーの展覧会は日本では開催されていない。
ムンクと共に、表現主義の先駆者と目されながら、ホドラーの名は、あまり知られていないように思う。

私の連れの彼女は、病み上がりであった。
彼女は神経科の病院に数年間入院し、退院後のリハビリ中であった。
病院ではハイデッガーやサルトル、ニーチェ等の哲学書を読みあさっていたらしく、
また、多くの患者と様態を見、彼らと様々な議論をして来たため、まだ20歳になったばかりなのに、老成した印象を与えた。

そして、私が一番、驚いたのは、その健康さであった。
人は衰弱して病気になるが、また、健康すぎても病気になる。
肉体的な健康はもちろん、私は彼女の、しなやかな知性、明晰な分析力に舌を巻いていた。
しかし、その明晰さゆえに現実の世界の中では生きにくいこともある。

この世界は、ゆるやかな衰弱と、いくらかの蒙昧を持っていた方が生き易いのである。

フェルディナント・ホドラーの世界は極めて明晰である。
それは、スイスの高地の空気のような透明感を持っている。

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「夢」1978年



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「秋の夕べ」1897年



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「生に疲れし人々」1892年



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「昼」1904年





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ホドラーは1853年にスイスの首都ベルンで、非常に貧しい職人の家の、6人兄弟の長男として生まれる。

彼の兄弟は幼少の内に結核で全員が死去。

さらに父が死に、母が死に、14歳で彼は天涯孤独となる。



最初は看板職人や観光客相手に絵を売る路上の画家を経験。

小銭をためて、ジュネーブまで歩いて行った。

ジュネーブの美術館で、展示された絵画の模写をしていた時に、美術学校の校長に見出され、彼の学校に入り基礎を学んだ。

その後スペインに渡り、マドリードのプラド美術館に通い巨匠達の絵を見て学ぶ。



その後、ジュネーブに戻るが、貧しい生活が続く。

しかし、50歳を過ぎた頃、その特異な作風は注目されるのである。



ホドラーは50歳までは名も無い貧しい画家であり、その人生の殆どをスイスで過ごし、他の画家達や様々な画壇の運動とは没交渉であった。






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ジュネーブ湖





ホドラーの絵は、一部の特徴的な人物画を除くと、その殆どが風景画であり、さらに、スイスの湖を描いたものが圧倒的に多い。



しかし、ホドラーの「湖の絵」の色彩は、印刷物での表現は不可能である。

例えば上の絵の、明るい空と雲を映す湖面は、極めて平面的に広がってみえる。

しかし、この絵の本物を目の前にすると、明るい湖面の下に存在する圧倒的な水の量と、その深さが描かれているのである。



その下に深く冷たい水があるから、水の表は明るく穏やかなのである。

冷徹に死を見つめる目があるからこそ、生の喜びも描けるのである。



あの日に購入したホドラー展のカタログに、何枚かの湖の絵がカラーで収められているが、実物を見た印象とは全く異なっていた。


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by yuyuu-yano | 2014-12-14 14:48 | 絵画