小倉城の「迎え虎」とお「送り虎」

小倉城で唯一、撮影可能な2枚の絵。


 


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上が「迎え虎」、下が「送り虎」


小倉城が長州に攻められて焼失した慶応二年寅年(1866)に因んで描かれた・・・と説明があるが、誰が何時書いたのかは、どこにも説明が無い。


 


変なの。


 


とにかくデカイ絵である。


4.7メートル×2.9メートル。


 


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江戸時代の終わりに、小倉藩を中心とした長州藩との戦い」ありました。


尊王倒幕の旗印を掲げる長州藩に対して、幕府は征長)の軍を興しました。


そして、その中心的役割となったのが小倉藩だったのです。


 


 数では有利だった小倉藩と、近代的戦術を駆使した長州藩との戦いは、1867年(慶応3年)両藩の間に和議が成立し小倉藩を中心とした長州藩との戦いが終結することになりました。


 


長州藩との戦いで小倉藩が負けたため、企救郡(門司区・小倉北区・南区の三区)の領地は、長州藩預かりとなり、毛利氏の支配下に置かれることになりました。


 


 また、この戦いで小倉城楼門の一つにあった大太鼓と城内の燈籠一対が戦利品として下関に持ち帰られました。


 


現在、大太鼓は厳島神社(下関市新地町)に、石燈籠は、東行庵(下関市吉田)に置かれていると言われています。


 


小倉・肥後軍と長州軍との戦い>




 幕府軍は、小倉藩を中心に肥後藩、柳川藩、久留米藩の兵およそ20,000人が集結しましたが、実際に戦いに参加したのは小倉藩と肥後藩だけでした。


一方、高杉晋作が指揮する長州藩は、奇兵隊・長州藩報国隊などおよそ1,000人と少数でした。


1866年(慶応2年)6月、長州軍が田野浦(門司区)に上陸したことからこの戦いがついに始まりました。


 


 圧倒的な人数をほこる小倉軍でしたが、鎧かぶとを身に着け、火縄銃と槍・弓矢で戦ったのに対し、火力が強く続けて弾を撃つことが出来るケーベル銃で武装し、ズボン姿の身軽な服装の長州藩が次第に有利になり、小倉軍は大里から藤松へと退きました。


 


 7月27日には肥後軍をはじめ、他の藩は引き上げてしまいました。


小倉藩も仕方がないので、8月1日、自ら小倉城に火を放ち、香春に退き、小倉南部で抵抗を続けました。


 


そして、1867年(慶応3年)1月、やっと両藩の間に和議が成立し、小倉藩を中心とした長州藩との戦いが集結することになりました。 


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by yuyuu-yano | 2010-06-08 12:36 | 国内出張・忙中閑有
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